野田地図

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コラム

『野田版 研辰の討たれ』


中村勘九郎は、ディズニーランドが大好きだ。わあーきゃあーひええと叫んでまわるのが好きらしい。楽しまなくちゃ楽しんでいこうよ、おじちゃんもおばちゃんも、ということらしい。面白がらなくちゃあ、もうどしどし面白がっていこう、せんせえも、しゃっちょさんも、ということであるらしい。
そういう勘九郎の面白がったり、がらせたりする、「がりがらせる」面白さへの執着心にほだされて、私は馴れない歌舞伎の脚色をやり、演出をやってみる気になった。  

話を本題の方へ、ディズニーランドに戻そう。私は、歌舞伎の演出もやったことがないが、ディズニーランドにも行ったことがない。今時………と、よく言われる。何が今時なんだか知らないけれども、必ずと言っていいくらい、今時………と言われる。「………」のところには、蔑みとか長いため息とかハンバーガーを食っている音とかが入る。要約すれば、わざわざディズニーランドに行かないとは、この日本かぶれめ!ということなのであろうか。
だが、激しく私を痛罵する、かのディズニーランドの通人たちの、この後、三百年とか四百年後の姿を想像すると、些かぞっとする。その頃はもう、ディズニーランドは、アメリカを象徴する伝統文化になっているだろう。

そしてアメリカと区別が付かなくなった日本で、しかも本場浦安で「あの頃のディズニーランドは良かったねえ………」と昔のディズニーランドを見てきたかのように、うそぶく者が現れる。「初代、三代目のスプラッシュマウンテンに比べると、近頃のスプラッシュマウンテンには品格がなくなってきた」などと、嘆く者も現れる。あるいはまた「今回のパレードは、エレクトロニカルパレードの時代から脈々と続く伝統を全く無視している。彼らは伝統など電灯だ!と洒落のめすつもりかもしれないが大間違いだ。ディズニーランドには長く培われてきた伝統の力がある。ディズニーランドに不勉強な者が、いけしゃあしゃあとこの伝統ある世界に入り込んできては困る」と憤る者も出て来るであろう。

そして、こんな風に伝統を振りかざさなければもはや、やっていけなくなっている、四百年後のディズニーランドは、おそらく、思いっきり退屈なものになりつつあるのではないだろうか。そのディズニーランドは、伝統芸術ではありえる。だがかつて中村勘九郎をして、わあーきゃあーひええと言わしめた頃の面白さはそのディズニーランドからは消えてなくなってしまっているかも知れない。  

私は、伝統をわざわざ踏みにじろうなどという者ではない。第一、そんなにあっさりと踏みにじられるようなものは、長い時間をかけて作られた伝統ではない。踏みにじられるのは伝統に乗っかった勘違いである。見せ物に脈々と流れる伝統とは、面白がり、面白がらせる心である。この、「がりがらせる心」があってもなお面白いモノを作るのは大変なことだ。面白さなど、日々刻々と変わっていくものだからである。

予言をしておこう。

この「研辰の討たれ」を見て「こんなモノは歌舞伎ではない」と仰有る方が必ず現れる。私は、そんなことには慣れっこである。元々「こんなものは芝居ではない」と言われて二十年以上しぶとく芝居の世界を生き延びてきたのだから。
 
歌舞伎はこうあらねばならない、と硬直してしまった脳をもった人間から「もっと歌舞伎を勉強しなさい」と言われたら、謙虚にその言葉は受けとめる。けれども、同時にこちらも「もっと面白さを勉強しなさい」と「がりがらせる心」が思わず言い返してしまうだろう。 取りあえず、この度は「がりがらせる心」で歌舞伎座に乗り込んだ、軽いジャブのつもりである。いつか、新作歌舞伎を書き上げ、その重いパンチをひっさげて、また歌舞伎座のリングに上がりたい。 もちろん、この「研辰の討たれ」を少しでも面白がっていただけたらの話である。