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第43回岸田國士戯曲賞選評(1999年)
第46回岸田國士戯曲賞選評(2002年)
選評
今年は、漫画に強く影響された作品がでてこなかった代わりに、テレビの脚本に近いようなものが、いくつかありました。ここ数年、演劇空間のダイナミズムを意識した作品が激減していると思います。
その中で、『火計り』は、欠点もありますが、スケール感があって、昨今のちまちましたものに比べると、演劇的であるし、読む者に、空間の想像力を駆りたてる作品だと思いました。出だしは些か、薩摩焼きの歴史の勉強でもしているようで、或いは、観光ガイドの話を聞いているようで、ちょいと閉口しました。これらは、この作家の言葉がこなれていないからだと思います。その意味で、この作家が若ければ、数を書けば、必ず面白くなると思います。時々、新劇がもつ悪しきお仕着せ、すなわち、(36頁の一同爆笑、一同苦笑といった)たいしておかしくもない事を役者にやらせて爆笑などと平気で書く作家の怠慢もみられます。だが、23頁の「朝鮮の火」とか47頁の「俺達も重しってわけか」といったハッとさせる台詞もあります。構造的にも、近頃の作品のように説明的、或いはステレオタイプ的でなく、何と何がどう繋がっていくのか分からないスリリングさもありました。特に中盤、42頁から64頁までの三つの時代を通っていく作り方は面白く感じました。演出家の食指が動く描き方です。欠点はあるけれども、近頃の作品に見られないダイナミズムを感じました。日本が侵略した朝鮮という、ともすれば陰惨でありきたりのものになってしまう題材がお仕着せではない、モノを作る人間の目から捉えられているのも、私がこの作品を推すもう一つの理由です。
これに比べて、同じように韓国と日本の問題を取り上げている『東亜悲恋』は、極めてステレオタイプのテレビドラマを見ているようで、ああこうなるね、こうなるねといった予定調和型でした。特に、53頁の日本人が韓国人に謝罪をするという下りは、「演劇を使った主義主張」であり、とすれば、その主義主張に賛同できない者は、もはやこの芝居を見ることが出来なくなる。そう思うのです。私は、寧ろ逆に「主義主張を使った演劇」であって欲しいと思います。それであれば、その主義主張の好き嫌いを越えて芝居を見ることが出来ると思います。つまり、かつて演劇を使ってマルクス主義を唱えた芝居は、マルクス主義者以外は見ることが出来なかった。それが日本の演劇を不幸にした時代があったと思うのです。しかし、マルクス主義を使った演劇であれば、われわれは、好き嫌い関係なく、芝居さえ面白ければ見ることが出来ると思うのです。それは兎も角もこの『東亜悲恋』には、二つの時間が流れていて、まあ、十年前の話の方は辛うじて安っぽいメロドラマとして成立していますが、現在の話の方には全く魅力がない。人をただ泣かせようとするセンチメンタリズムが、作品全体を支配しています。きっとそれは、この作家が嫌うであろうナショナリズムに実は直結する情緒だと思います。
同じくテレビドラマの脚本のようだと思ったのが『ペーパーマリッジ』でした。題名からして既にお洒落に出来ていて、展開もお洒落です。偽装結婚という言葉が、あれ?という感じで使われて、ペーパーマリッジという題名と共に謎を残す。一度は、なあんだ同性愛者ってことかと、がっかりもしましたが、母親の存在がふたたび謎をつくってくれます。ただ、この作品が先へ先へと引っ張っていく謎は、『火計り』のそれに比べると演劇的な謎ではありません。謎が解かれるとただそれだけです。言ってみれば、テレビドラマが、視聴者を引っ張るためにわざと作るだけの謎です。種明かしすれば、同性愛者であったり出会い系メールであったり、とても短絡的です。それは、32頁の肉親(父)の死への件りに現れています。だから、結局その話題をやめてスイカを食って種を飛ばす。この光景は昨今のテレビドラマそのものです。
只、最後の母娘喧嘩には、男の作家ではここまでは描けない生々しいリアルさがあって面白く思いました。そして、最後の物語の終わらせ方を、ドアノブが取れてしまう所へもっていった、それこそが、この作品が持つお洒落感を象徴していると思います。そこをどう見るかでしょう。来週も続くテレビ番組の終わりのようでもあります。結局、その時間を掛けても何ひとつ抱えている問題は先へ進まなかった。そうとるか、それともこのお洒落感は、三谷幸喜などの作品にも通じる、ひとつの芝居のありようなのだと思うかです。
『アザミ』は、寺山よりも凄い童話を書く作家(38頁)というはったりをかまして、しかも実際に、その童話を後半の中心に持っていった。これに尽きると思います。おそらく、その童話にそれだけの力があり説得力があれば、この作品は成功しています。けれども、それがなかったわけだから、これは失敗作でしょう。最初の退屈さから、とつぜん若い二人の結婚話に入った瞬間や、若い男が、ストーカーであったと分かった瞬間など、あ、おもしろいかな?と引っかかるところもあります。テレビ派とは違う演劇だけが持つ荒っぽさも時々見られます。けれども、おおむねは取り上げる素材が、古い文学青年が自慢げに話していたような、宇宙の果てとかフロイトとか秀吉とかカフカとかであって、きっとこの作家は、よくいる、自分の話がまだ面白いと思っている面白くない人なんだろうなあと思ってしまう。芝居の最後の方は、私小説的な吐きもの、すなわち演劇人にありがちな、酔っぱらって管を巻いてげろを吐いている。そんな感じを抱きました。というのは、最後まで平井とふゆの愛の形が作品の中では描かれていないからです。それは、きっと作家の私生活での出来事ではないのか、とさえ思ってしまうのです。すなわち、こちらにすれば、どうでもいいのです。
『赤シャツ』は、ギルデンスターンとローゼンクランツのような狙いだとは思います。裏から読んだ「坊っちゃん」ということは歴然としています。そして、この作品では、裏から読んできたときに、人間の「誤解」というものが重要な形で現れます。確かに「誤解」は、喜劇の基本でもあるし、また悲劇の本道でもある気がします。シェイクスピアはもちろん、古今東西ありとあらゆる誤解のドラマがあったと思います。ただ、この戯曲は、その誤解を作品の中で消化するものでなく、誰もが坊っちゃんを読んでいるという前提で作られています。すなわち、この戯曲が取り扱っている「誤解」は、日本人なら誰もが知っている小説の「誤読」と言った形での誤解です。問題は、このように誤読しなければならない「作家の理由」が見あたらないことなのです。だから何故、野だいこは、野だいこのままで、赤シャツだけが、弁護されるような誤読の意味があるのだろうと考えさせられます。それは、徴兵拒否なのだろうか、弱い男ということなのだろうか、作品の中では最後に「今時古賀君や堀田君や坊っちゃん先生のような人間は珍しくてなかなか代わりが見あたらないが、僕のような当世流円滑紳士などはなどは、その気になればいくらでも代わりがいるということなのだろう……」と説明はしているが、腑に落ちない。明らかにつけたしのようだ。巨人引力などという言葉も使っているが、これが象徴するものも怪しい。結局、この作品はいい役者といい演出家に出会うことによって、作家の誤読の理由が初めて見つかる。そうした可能性を秘めた戯曲だと思います。












