野田地図

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コラム

第54回岸田國士戯曲賞選評(2010年)


「寂しさを解く」

寂寥感とか孤独といった、積み上げられた悲しみではなくて、ただ寂しさの様なものを『わが星』を読んだ後に感じた。
「今ここに、光が届いているあの星が、とうの昔に消えているかもしれない」という話を誰もが子供のころに聞いた。その時に誰もが感じた≪初めての寂しさ≫のようなものだ。それは、人が初めて感じる≪生き物としての寂しさ≫と呼べる。ありふれていると言えばありふれたモチーフだ。
だが柴氏は、このモチーフをただありふれたセリフや手法で表現していない。≪ずらす≫という手法で蘇らせている。韻を踏んだり、或いはラップというセリフの在り方で、コトバを≪ずらし≫、さらにそのコトバを発する主体を≪ずらし≫、その≪ずれ≫から、星の光を絞り出した。読み終わった後に、確かに、その星の光のようなものが零れている。涙を流すような悲しさではない。透き通って寂しい。ここまで徹底して≪ずらす≫手法は、新しいと呼んでいい。肉声を含めた肉体を使う舞台でしかできないコトバの扱い方である。この≪ずらす≫手法は数学の問題を美しく解いて見せた時の方法に似ている。答えは、≪寂しさ≫であり、驚きはない。だが解き方が美しいのである。この手法だけで、今後どれだけのことが表現できるのか、或いはどこかまでしか表現できないのか、それは私の預かり知るところではない。でも、今この時点で、この手法はひとつの才能である。この作品をためらわずに推した。
江本氏の『セクシードライバー』は、セリフは上手いが今はやりのコントの台本である。芝居のサブストーリーだけで芝居を作っちゃったという風に見えた。どこかにあるだろう本編が見たい。
福原氏の『その夜明け、嘘。』も、これもまたセリフが上手い。何気ないのに面白い。何度も笑った。だが、スランプの漫画家の世界を描いた作品そのものが漫画になってしまったのは、テレビの中でテレビを見せられている(この比喩でいいのか?)ようなつまらなさを感じた。仕掛けがない。
神里氏の『ヘアカットさん』は、マイク・ジャクソンの条が好きだった。だが残念ながら、これがバイクで死んだ青年やその恋人の話とは何ら絡まない。結局ただの安いセンチメンタルなドラマに終わっている。せっかくマイク・ジャクソンなのに…。
松井氏の『あの人の世界』は、構造を隠そうとしすぎて、複雑になり失敗している。もっとすっきりととぼけている方がいい。彼の面白さは、≪無関係なもの≫に無理矢理≪関係≫を持たせようとする我々人間の病気を利用したような台本にある。と、勝手に思い込んでいる。面白い才能なだけに、今回のはいただけない。私にはただ「動物実験に抗議した若い女性の自殺っぽいもの」の話に見えてしまった。この解釈があっていたらつまらない話だし、間違っていたとしても、そうにしか見せなかったこの構造が破綻していると言える。(或いは、わたしが馬鹿か、ま、十分その可能性もある)
前川氏の『見えざるモノの生き残り』は、作家が多忙なのか?この作品は如何にも練られていない。作家が人間の「死」と真剣に向き合わなければならない理由はない。とことん逆の手もある。だが、ここで描かれているナナフシの死は芝居を終わらせるために用意された、ただのオチだ。「彼が強姦に及ぼうとした時に、座敷童子が女性を守ろうとして、プロレスの技を使って彼を殺した」ということになる。「死」に真剣でないばかりでなく「創作」というものに真摯でない。こんなオチのような結末は要らない。彼の旧作品、他作品には、面白いものがいくつかある。何故これが候補作に上がってきたのか、解せない。
野木氏の『五人の執事』は、どうなっていくのだろう?という興味を持って読めた。空間を感じることのできる本だった。ただ、途中で、多重人格にオチをつけるのだと読めた時から、一気に興味が薄れた。芝居というのは、オチをつけるために、書かれるべきものではない。後半は、一人の多重人格者である主人と一人の執事の物語におちていくのだが、それが分かったからといって、何の驚きもない。数学として台本を構成することは悪くない。だが、これは悪い解答例だ。解答はあっているが解き方が美しくない。私たちが見たいのは、答え(=オチ)ではなくて、解き方(=芝居)である。

野田秀樹