野田地図

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『贋作桜の森の満開の下』


それは、誰にでもある子供の頃の記憶だと思う。

大人と共に食事をして、その話がなんだか退屈で、目の前の皿やら茶碗やらをいじっているうちに、その皿や茶碗に魂が宿り始める。皿と茶碗が戦争を始め、たぶん茶碗が負けそうになって、それで箸が突如、茶碗の救世主として登場したりする。箸は、茶碗を助ける時に当然、茶碗を叩くことになるから、その度に食卓に大きな音が響き、「何やってるの、静かにしなさい」という所で、その壮大な物語は終わる。

確かに我々は子供の頃、無知なぶん、いろいろなモノに魂を宿らせることができた。古代人が持っていた心は、これに近かったと私は決めている。木や岩や火に魂を見つけ、神を宿らせていた。これをアニミズム、という。  

今、日本中を席巻しているアニメ文化は、このアニミズムである。絵が動いて魂を持つ。子供の世界である。だけれども私は、日本から世界へまで発信されている、このアニメ文化を手放しで賛美できない。どこかいかがわしい作為を感じる。それは、制度化されたアニミズムとでも呼べば良いのだろうか。ぶっちゃけて言えば、大人が子供に用意してあげたおもちゃに過ぎない、ということだ。食卓の目線で見つけた箸やら皿のアニミズムは、子供が自分で発見し作り出した世界だ。だが、アニメはどうだろう。そこには、大人が考える社会の正義があり理不尽さはない。ナンセンスに見えるアニメでさえもだ。

この《贋作桜の森の満開の下》が描く世界は、そのアニミズムの崩壊だ。古代人が持っていたアニミズムの魂が、一つの作為によって、制度化されていく。その作為こそが、クニを作るという思いである。われわれにはもう、クニを作ったころの思いなどわかるわけはない。だが、モノを作る思いならわかる。一つのモノを作るためにどれだけの魂を犠牲にし、そのうえに作っていかなければならないか。もちろん、芝居を作るということもそうなのである。一つの魂を宿すためには、沢山の魂が消されていってるのである。

満開の桜の下に行くと、今でも我々がその場所に何か魂でも宿っている気になるとすれば、それが消えていった者達の思いだ。この国が作られるために消えていった、古代人のアニミズムである。それを私は、鬼と呼んでいる。