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- ■2007/12/07
『キル』 - ■2007/06/27
『THE BEE』 - ■2005/12/06
『贋作・罪と罰』 - ■2005/05/01
『野田版 研辰の討たれ』 再演 - ■2004/12/03
『走れメルス』 - ■2004/08/01
『赤鬼』 - ■2004/03/01
『透明人間の蒸気』 - ■2003/08/01
『野田版 鼠小僧』 - ■2001/08/01
『野田版 研辰の討たれ』 - ■2001/06/01
『贋作桜の森の満開の下』 - ■2001/02/03
『2001人芝居』 - ■2000/09/08
『農業少女』韓国公演
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『走れメルス』
この芝居を書いたのは、私が二十歳の時で、二十二歳で書き直して、ほぼ今の形になった。
私は今やもうこういう芝居を書かない。そして書けない。「書かない」のも「書けない」のも、その理由は、「若い」ということである。
「若い」人が、「若い」ということについて書く、あるいは、表現する。これは、いつの時代にも必ずあったことで、ただ、その時代その時代にあった「若い」テクニックを用いて、手を変え、品を変え、表現してきた。そして、それは「新しい」と呼ばれた。
何ゆえ、いまさら私が、この古い「若い」芝居をやろうと思ったのか。正直に自分に尋ねたところ、どうも近頃の新しい「若い」芝居を面白いと思えないからだ。
たとえば、今、あなたの目の前に壁がある。そこから、箪笥が半分突き出しているとする。
老いた者は、壁の向こうにあるものを、箪笥の残り半分だと想像する。人生の経験からである。つまり、それは想像していないも同然である。若いということは、見えているその半分の箪笥が、見えていない壁の向こう半分で何に繋がっていくか、いかようにも想像できる力である。箪笥は何に繋がってもよいのだ。見えない残りの半分では、何も決まってはいない。いや、残りが半分などと誰が決めたのだ。向こう側のことなど誰もわかってはいないのだ。「若い」とは、そう信じ込む力である。世界の中心で、わかりきった愛なんか叫んでる場合じゃない。「助けてくださあい」じゃない。誰も助けねえよ。
そんなわけで、この「走れメルス」は、古い「若い」表現者からの、今の「若い」表現者への挑発であり、挑戦である。ま、いつまでも挑戦者側に回ろうとする私も、汚いといえば汚い。挑戦者側のほうが、有利に決まっている。だが、私には「若い」人の稚拙な企みを受けて立つほどの分別はない。そんなもの待ってはいられない。悪いけど、先へ行く。












