2000年/テアトロ11月号より
これから芝居の本番があって、その劇場入りをする前の二時間を使ってこの文章を書こうとしている。 たった二時間で、演劇の未来を考えてしまおうということ自体が、まず図々しい。笑える。でもやる。 例えば今、僕はこれをパソコンのワープロ機能を使って書いている。そしてメールを使って送ろうとしている。ちょっと前ならばファックスだったろう。 僕が芝居を始めた頃にはそんなことはできなかった。手書きして、それから清書して、編集者の人に電話を入れて、会う場所を決めて、というわけで、とても二時間では無理だった。 そういう意味では変わった。 だが、技術がどんなに変わっても、今僕が何を書こうとしているか、そのことに関しては新しさはない。手で書こうが、パソコンで書こうが同じだ。「何をいかに書くか」それは、いつも変わらない。 そう断言したい。だができない。 厄介なのは、はっきりとそう言いきれないところだ。確かにこのパソコンというかワープロというかこの新しい技術は、全く僕の書くものに影響を与えていないわけではない。 例えば、漢字を書きながら、脳に与えるインスピレーションの機会を僕から奪い取っていたりする。 技術は知らず人間の根元的な営みにさえ影響を与える。恋愛を例に取ろう。手紙という技術が、一世を風靡した時代と、今のような電話の時代と、恋愛の形を変えてしまっている。今の恋愛は手紙のように待つことを知らず、こらえ性がない。どっちが良いとか、悪いとかではない。技術は恋愛の形を変え人の心にさえ影響を与えている。 だがまた、同時に技術がどれだけ新しくても人間の営みの変わりにくい部分があるのも事実だ。どんなに新しい技術がでても、恋愛における恋人達の嫉妬心が消えることはないだろう。手紙の時代も、電話の時代も、恋人達は愚かに嫉妬し続けてきた。 芝居がこれから立ち会っていく新しさ、これについても全く同じだ。新しい技術の洗礼を受けて、確実に演劇は変わる。と同時に変わらないものもある。 これから次々と芝居小屋にも訪れる新しい技術は、芝居のスタイルを間違えなく変えていく。いや、変えるというよりも、単純に想像するだけでも、音楽と光を駆使したパフォーマンスに近いスタイルが、もっともっと増えてくるだろうし、それを「演劇と呼ぶかどうか」などという議論は邪道だろう。 元々、古典劇と新しい劇は、同じ演劇のジャンルでくくられているけれども、そんなことどうでもいいじゃないってほど、かけ離れている。どちらが演劇的に正しいなどということはない。その芝居が生まれたときの技術の中で出来あがったスタイルの違いに過ぎない。それだけのことだ。 私の劇場入りが一時間後に近づいてきたので、大ざっぱなことを言ってのけるが、演劇は詩(セリフ)と肉体という二本柱を持っていて、ここはなかなか揺らぎにくい。観客がいつも感動するのは、この二本柱であり、これはなかなか未来の技術に屈するものではない。 とくに人間の肉体は、怠けやすく疲れやすく老いやすいので、とても厄介だがそれ故に、技術によってそうそう変わるものではない。新しめのパフォーマンスが現れても、結局その質の高さは音楽や光ではなくて、その中のパフォーマーの肉体の質の高さで決まってくる。その意味では、能と違いはない。 粗っぽく考えて、これからの技術と時代が影響を与えるとすれば、演劇の持っている詩(セリフ)の側面の方ではないだろうか。しかももうそれは始まっていると思う。芝居は元々、日本語を使っていながら、肉体というインターナショナルな側面を持っているから、国内にとどまりきれない。かといって、国外で日本の芝居をやっていこうとすると、日本語が障碍になることを改めて知る。面白く美しい日本語は、外に向かう時、大きな壁となる。だがそれは仕方がない。違ってこそ文化なのだ。そうは分かっていながらもなかなかのジレンマだ。 今、僕がぶち当たっているのは、その辺りだ。去年、今年と国外の演出家、役者と新作を作ろうと思い、向こうでワークショップを始めた。あまり、演劇の未来などを考えたことはないが、そうしたものと関係している近頃の僕の活動があるとすれば、そんな所でしょうか。簡単なことではないのは百も承知だけれど、もうしばらく、そこら辺りをうろついておきます。結果は作品としてしか現れないから、もうちょっと後のことですね。
2000年/テアトロ11月号より












